◆ Minor Cinema #13 ◆
「The Planet Of The Apes 猿の惑星」 2001年 ティム・バートン版
| 制作年: | 2001年 アメリカ | |
| 監督: | ティム・バートン Tim Burton | |
| 製作: | リチャード・D・ザナック Richard D. Zanuck | |
| 製作総指揮: | ラルフ・ウィンター Ralph Winter | |
| 原作: | ピエール・ブール Pierre Boulle | |
| 脚本: | ウィリアム・ブロイルズ・Jr William Broyles Jr. | |
| ローレンス・コナー Lawrence Konner | ||
| マーク・ローゼンタール Mark Rosenthal | ||
| 撮影: | フィリップ・ルースロ Philippe Rousselot | |
| SFX: | ILM ILM | |
| 特殊メイク: | リック・ベイカー Rick Baker | |
| 音楽: | ダニー・エルフマン Danny Elfman | |
| 出演: | マーク・ウォールバーグ Mark Wahlberg | レオ・デイヴィッドソン大尉 |
| ティム・ロス Tim Roth | セード | |
| ヘレナ・ボナム=カーター Helena Bonham Carter | アリ | |
| マイケル・クラーク・ダンカン Michael Clarke Duncan | アター | |
| エステラ・ウォーレン Estella Warren | デイナ | |
| ポール・ジアマッティ Paul Giamatti | リンボー | |
| ケイリー=ヒロユキ・タガワ Cary-Hiroyuki Tagawa | クラル | |
| デヴィッド・ワーナー David Warner | サンダー | |
| リサ・マリー Lisa Marie | ノヴァ | |
| エリック・エヴァリ Eric Avari | ティバル | |
| ルーク・エバール Luke Eberl | バーン | |
| エヴァン・デクスター・パーク Evan Dexter Parke | ガナー | |
| グレン・シャディックス Glenn Shadix | ネード元老院議員 | |
| クリス・クリストファーソン Kris Kristofferson | カルービ | |
| チャールトン・ヘストン Charlton Heston | セードの父 | |
この映画、リメイクのせいか、やたらと酷評する人がボクの周囲では多い。
しかし、ボクにとっては思っていたより良いデキの映画だった。
というよりむしろ、素晴らしいデキだったと言う方がいいかもしれない。
ボクはストーリーテリングについていつも深読みするタチなので、
1作目を見たとき、最後のドンデン返しに途中から予測がついてしまったクチである。
とはいえ、1作目は、予測がついて尚、凄みを失わない不朽の名作である。
おそらく、映画監督を生業とする者にとって、「猿の惑星」のリメイクを手掛けることは、
非常に名誉なことであると同時に、凄まじいプレッシャーを伴うことだと思う。
ティム・バートンにしてみれば、ほとんど全身全霊の入れ込み様だったのではなかろうか。
まず、ストーリーテリングの要素から言うと、
このティム・バートン版には、過去の「猿の惑星」シリーズ(5作品)が持つ要素の集約が見られる。
とはつまり、
「猿の惑星(未来の地球)への漂着 → 猿生息圏からの脱出
→ 猿VS人間の戦争 → 猿と人間の共生
→ 結局は猿が覇権を握る 」
という要素の循環をティム・バートンが1作品に詰め込んだことを意味する。
こう書くと、なんだかダイジェスト版のようでお手軽な作品に思えてくるかもしれないが、
1作品の中にこれだけの要素を違和感なくかつ独自性を混ぜて詰め込むのは、非常に困難だと思う。
そのせいか、要素を物語としてつなぐためと思われる、緻密な伏線の張り方が見られる。
伏線を張るという構成のテクニック自体は、オーソドックスなものであるが、
伏線を生かすタイミングと伏線自体が持つボリュームを加減することは非常に難しい。
その点、ティム・バートンは、最初に行方不明になったチンパンジーを絶妙のタイミングで再登場
させることで、古典的でありながら構成的に美しいストーリー展開に仕上げている。
シリーズ全てを知らない人からすれば、ティム・バートン版は、ドンデン返しの連続か、
或いは、不可解な結末に頭を悩ませる作品のように感じるかもしれない。
しかし、シリーズ全てを知る者からすれば、意外性よりも要素をつなぎ合わせる構成の巧みさに
舌を巻く作品なのではないだろうか。
次に、作品が与える印象について述べたい。
1作目と共通して感じられる作品全体を覆う印象は、「主客転倒的感覚」である。
知能を持った猿が人間を支配する世界。
作品を見る者は、飼い主とペットが入れ替わった感覚に襲われるのだが、
ここでミソなのは、ここで描かれている猿は、人間と同等の知能を持った猿だということである。
しかし、この知能を持った猿達の社会は、前近代的な社会である。
そのために、作品を見ている我々は、ともすれば、その猿社会が人間社会よりも劣っているように
見えてしまいそうである。
しかし、前近代的とはいえ、それは文明の発展段階の一時点に過ぎず、そこが猿達の文明の限界点だ
というわけではない。
つまり、この作品中では、猿と人間とが同列であるべきなのである。
しかし、猿達は人間を下等な種族と決めつけて奴隷として扱う。
そして、作品を見ている我々はそのシーンを見て、
「猿のくせに」
という感覚に捕われ、判ってはいてもどうにも不快な気分になる。
ここでボクの胸に湧き上がるのは、「のび太とジャイアン」の関係である。
ジャイアンは事あるごとに、
「のび太のくせに」
というセリフを吐く。
つまり、ジャイアンはのび太をハナから隷属的な存在として捉えている。
腕力においてのび太が圧倒的に弱いからである。
しかし、第三者から見れば、ジャイアンの方が人として優れているわけでないことは明らかである。
つまり、何を言いたいのかというと、この「猿の惑星」という作品が、
見ている我々人間の「優性意識」を咎める要素を多分に持っているということである。
ボクは、どうしてもそこのところを無視できないでいる。
1作目と共通するこの作品の本質は、単に猿と人間の差異の問題などではなく、
「優性意識が争いを生む」
というところにあるのではないだろうか。
ティム・バートン版固有の見ドコロを挙げるとするならば、
猿メイクとワイヤーアクション、猿の動き、人間の風体などが思い浮かぶ。
猿メイクを見ていると、猿と言っても人種ならぬ猿種で階層があることに気づく。
戦士や軍人はゴリラ、議員や商人はオランウータン、一般市民はチンパンジー、といった感じである。
ゴリラ戦士同士の決闘シーンで、両者が武器を捨てて素手の殴り合いになるくだりがあるのだが、
この殴り方が実に人間ぽくないゴリラらしい殴り方で面白い。
そこに、ティム・バートンらしいこだわりとユーモアを感じるのだが、この種のこだわりは、
作品全体を通して、「猿の動き」に如実に現れている。
つまり、猿達は、知能を持った存在として描かれると同時に、猿らしさを色濃く残した存在としても
描かれているのである。
そして、ボクにとって猿以上に興味深いのが、作中の人間の姿である。
1作目での人間は、言葉を喋らない野獣のような存在として描かれていた。
しかし、このティム・バートン版での人間は、言葉を喋るある程度の知性を感じさせる存在として
描かれている。
このことは、ティム・バートン版が、猿と人間の同列性を強調しているように思えて面白い。
もっと面白いのは、金髪姉ちゃんの風貌が、やたらと現代的でキレイなところ(人工的な眉毛とか)
だが、このあたりは、ティム・バートンの茶目っ気のような匂いもする。
真面目に考えたら、金髪姉ちゃんは要らないだろうし。(笑)
それにしても、インターネット上のレビューを見ていると、この映画に対する酷評が多い。
「期待外れ」「つまらない」「ラストがダメ」という意見が圧倒的に多い。
ボクのように、「期待以上」「面白い」「ラストが良い」という手合いは、少数派なのだろうか。
End
付記:
(1作目の主役である大名優チャールトン・ヘストンがセード将軍の父親役で、猿として出ているのも面白い!)