映画の小窓3 「プラン9・フロム・アウタースペース」 凄まじい映画である。 神をも恐れぬ映画である。 あえて言っておこう。 この映画は、純然たるSFホラー作品である。 もちろん、ハリウッド映画である。(1956年のモノクロ作品) しかも、この世のどんなSF超大作も及ばないクオリティ。 ジョージ・ルーカスが地にひざまずき、 スピルバーグは土下座して謝り倒し、 ロバート・ゼメキスは合掌したまま昇天し、 水野晴郎がコケながら裸足で逃げ出すほどの、 迷作中の迷作である。 監督エド・ウッドは、よほどの変人であると同時に、 悲劇を超えて喜劇的と言えるほどの映画好きだったに違いない。 さて、 この作品の凄まじさを解説していこう。 あえて細部まで紹介するのは避けることにして、 ストーリーを一言で言えば、 「宇宙人が攻めてくる。」 というやつである。 宇宙人来襲モノと言えば、数々の名作があるが、 最近の有名ドコロとして思い浮かぶのは、 「インディペンデンス・デイ」「マーズアタック」 あたりであろう。 どちらも、巨額の制作費と最新のテクノロジーを、 惜しみなく投入した一大スペクタルである。 特に、「インディペンデンス・デイ」は、 放映当初、空前の規模と騒がれた。 何がスゴかったのかと言うと、その映像技術である。 空を覆い尽くすほどの巨大な宇宙船が出てくるわ、 ホワイトハウスは吹っ飛ばされるわ、 都市がまるごと破壊されるわ、 もうとにかく、ド派手で超リアル。(ちょ、超……。) 映画界にとっては、センセーショナルな作品だったのである。 本稿で取り挙げる「プラン9・フロム・アウタースペース」は、 そんな大スペクタル巨編など、ものともしない作品である。 第一、 スケールが違う。 常識をはるかに超えている。 まず、宇宙人の地球征服計画「プラン9」がスゴイ。 なぜ9なのかには、一切、劇中に説明がないが、 その驚愕すべき内容は、 「地球人の死体を墓場から吸血鬼として蘇らせる。」 というものである。 なんで、宇宙人が吸血鬼を? という疑問はこの際、置いておくとして、 この一文だけを読むと、 ああ、大量に吸血鬼を生み出して人類を滅ぼすんだな、 と、ありがちなB級ホラー映画の筋書きをイメージするだろう。 しかし、この映画はそんな凡人の発想を吹き飛ばす。 プラン9によって蘇った吸血鬼はたったの3人なのである。 3人だけ蘇らせて、何をするつもりなのか? 宇宙人が言うには、 地球人をビビらせるつもりらしい。 ビビらせて、地球人に降伏を迫るつもりらしい。 死人を蘇らせる技術を見せればビビって降伏するだろう、と。 そんなアホな! ショボさを通り越して、脱力感を与えるような計画である。 それにこの宇宙人、ニコちゃん大王並みにアホな宇宙人である。 宇宙人のアホさ加減はさておき、 UFOの登場シーンにも、ボクは度肝を抜かれた。 灰皿を2枚重ね合わせたものに限りなく近い飛行物体が2機、 フィ〜ンとか言って画面を横切るのである。 遠近感もくそもない。 さらに、その2機の母船が現れた時には、 ボクは、イスごとひっくり返りそうになった。 ただ、デカイだけ! である。 ディテールもへったくれもない。 「できるかな」で、ゴンタくんが作りそうなUFOである。 想像を絶するほどクオリティが低いのは、UFOだけではない。 脚本、セット、役者の演技、すべてにおいて低いのである。 しかも、そのショボさたるや、どれをとっても一級品である。 ストーリーのショボさを言えば、 「プラン9」は、見事、失敗に終わる。(成功されても困るが。) たった2人の地球人によって、UFOが火事になるのである。 しかも、発端は、ボヤである。 火の着いたUFOが慌てて母船に戻り、その火が母船に引火して、 母船は、破裂する風船のように爆発してしまうのである。 爆発の仕方まで、見事にショボい。 セットのショボさを言うと、 言い尽くせはしないが、飛行機のコックピットがその筆頭であろう。 まともな操縦桿さえなく、背景はカーテンを張っただけ。 こちらが、想像力を逞しくしなければそれと分からない。 役者の演技に関して言うと、 とにかく、とんでもない大根セリフが多い。 二人の人物が横一列に並んで立ち、棒読みで会話をする、 そんなカットが、エド・ウッド作品には多い。 学芸会を地でゆくハリウッド映画である。 ボクは、この作品を見終わるまでに、 200回ぐらいは、一人でツッコミを入れた。 なぜ、ツッコミを入れたくなるのか。 そこが、この映画のミソである。 史上最低と呼ばれる監督エド・ウッドは、 何もギャグでこんな作品を作っていたわけではない。 彼は、至って真剣、そして何よりも、 映画が好きで好きでたまらない。 それが、伝わってくるからこそ、 ボクは、この映画を見てゲラゲラ笑えるし、 ツッコミを入れたくもなるのである。 これが、ウケねらいの映画ならば、 到底、200回もツッコむ気にはなれないし、 ネタとしても笑えない。 大真面目に作った映画だからこそ、 「バカだなぁ。」 と笑いつつも、 その天然ボケの面白さの裏に、 エド・ウッドの人となりというか、 人間の悲哀のようなものを感じるのである。 エド・ウッドという人は、 おそらく、高級な人格ではないだろう。 人格に、高級も低級もないのだが、 きっと、愚かで、変人で、滑稽で、発想が幼稚で、 やることなすこと上手くいかない、 しょうもな〜い人間だったに違いない。 何だかクソミソにけなしてしまったが、 ひょっとしたら、彼の人格は、 クリエイターに不可欠な要素を含んでいるんじゃないか、 と、ボクはふと思ってしまうのである。 だから、ティム・バートンや、タランティーノ、 デビット・リンチなど、才能豊かな映画監督達から、 彼は、親しみを込めて愛されるのではないかと。 でも、よく考えると、 タランティーノやデビット・リンチの作品には、 結構、変態性が含まれているような気がする。 とすれば、彼らもエド・ウッドと同じ穴のムジナなのか。 まあ、得てして芸術家には奇人変人が多いという噂もあるから、 別に、共通項があっても不思議ではないのかもしれない。 そして、おそらく、監督の奇人変人度が臨界点を超えてしまうと、 映画が完成しないか、完成しても放映禁止になるか、 あるいは、それらの可能性を奇跡的に回避した結果、 エド・ウッド作品のような、超絶マイナー映画が誕生する……? そんなふうに、最近、ボクは考えてしまうのである。 END |