◆今日のコラム◆

2005/04/23

「花を愛でる」


思えば、花を美しいと思うようになったのはいつからだろう。
子供の頃は、周囲の人々や社会風土にそのまま従っていたので、素直に花を美しいと思っていた。
しかし、思春期から二十歳前ぐらいにかけての多感な時期、僕は花を美しいと思わなくなっていたことがある。ミドルティーンの頃、自我が覚醒して、僕は、世の中にある全ての物事や決め事を、疑ってかかるようになった。なぜ学校に行くのか、なぜ勉強するのか、といった尾崎豊の歌に出てきそうな青臭いテーマを皮切りに、音楽、芸術、文学から、昆布はなぜ海の中でダシが出てしまわないのか、といった素朴な疑問まで、とにかく一度自分の頭のフィルターを通して確認せずにはいられなくなったのである。

そんな疑問の一つに、美的感覚の問題があった。
なぜ、人はそれを美しいと思うのか?
花が美しいと最初に思った人は誰なんだろう?

例えば、枕草子の第一段に、

「夏は、夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛び違ひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。」

というくだりがある。
一説によれば、蛍の光が美しいというセンスは、当時としては斬新な美的感覚だったのだという。
その話を何かの本で読んだ当時の僕は、既存の美的感覚を疑ってみたくなったのである。
桜が満開の17歳の4月、僕は桜の花を見つめながら考えた。
花にはオシベとメシベがあって、虫が花粉をオシベからメシベに運んで、受粉が行われて実を結ぶ。
つまり、花は生殖器官なのである。
生殖器をこれ見よがしに剥き出しにする生物とは、いかがなものか。
考えようによっては、もの凄くハレンチとも言える。
そこまで考えて、僕は、目の前に広がる満開の桜を眺め渡した。
これでもかと露出される、幾千幾万の桜の生殖器。
それが男女入り乱れ、大群を成して視界に迫ってくる…。
もう僕の目には、むせ返るような生物の生殖活動の場としか見えず、吐き気さえ催してしまったのだった。

それからかなりの期間、どこでどんな花を見ても、どこか汚らわしいというか、下世話なもののように思えてならなかった…。

お前ら、もうちょっと隠すとか、やり様があるだろう!
お前ら、性に対してオープン過ぎ!

みたいなことを一人思い、赤面したものである。

このヘンテコリンな美的感覚逆転現象は、二十歳頃まで続いたのだが、何がきっかけで真っ当な感覚に戻ったのかは、覚えていない。
ともあれ、今の僕は、少なくとも人並みに、花鳥風月を愛でる感覚を持ち合わせているつもりである。




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