◆今日のコラム◆
2005/06/21
「頑張れ」
「頑張れ」と言われるのを嫌う人は、わりと多い。
かく言う僕も、何年か前まではそうだった。
今は、まあ、極端な言い様でなければ、嫌いではない。
アンチ「頑張れ」派の人の言い分は、
「言われなくても頑張ってるよ!」
「頑張っている人に、頑張れって言うのは失礼だ」
ってところなのだと思う。
また或いは、
「やたらと『頑張れ』って言われると疲れるじゃねえか!」
という思いもあるだろう。
確かに、一面、真理を突いているとは思う。
しかし、それでは「頑張れ」という言葉自体が、そもそも「頑張っていない人」に対してのみ向けられる言葉のようになってしまう。
僕は、この「頑張れ」という言葉は、声援の言葉なのだと思っている。
「頑張っている人」に対する「頑張れ」は、必ずしも「もっと頑張れ」という意味だけではないと思っている。現状維持の「頑張れ」だったりもするはずだと。
つまり、「頑張れ」も言い様によりけりなのである。
並の人が及ばないような努力をしている人に、全くそうでない人が押し付けがましく「頑張れ」というのは酷い話だと思うし、何でもない些細な事柄に対して力強く「頑張れ」と言うのも、ピントがズレている。
それに対して、TPOをわきまえて、屈託なく優しく放たれる「頑張れ」には、純粋な「声援の気持ち」がこめられている。
誰かが「頑張れ」と言うとき、僕は、この「声援の気持ち」を見逃したくない。
そのためには、穿った見方をしていてはいけない。
例え、それが無責任な「頑張れ」であったとしても、どこかにその人の「声援の気持ち」が含まれていることが多いものである。
「頑張れ」を一方的に嫌っていると、それを感じ取ることができなくなる。
そして、「人に『頑張れ』と言う人は嫌いだ」と一刀両断する人まで出てくる。
人の言葉を素直に受け止められる人間でありたいと思うが、詐欺が社会を横行する昨今、人を信じることが難しくなっているのは否めない。
だから、言葉のニュアンスを吟味して、良いものを嗅ぎ分けるバランス感覚が特に重要になってくる。
何だか、難しい時代だなぁとも思うこの頃である。
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