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  イースター礼拝メッセージ 2025年7月6日/小坂叡華主牧師

「神の国Ⅱ」   

イエス様の公生涯の第一声は「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ 1: 15 )というおことばでした。今年、教会に与えられたみことばは「神の国とその義をまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)で、掲示された聖句は「神第一」です。今朝は神の国について聖書から 学んでいきます。

イエス様は神の国について色々語られています。「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(ルカ18:25)、「神の国はからし種のようなものです」(ルカ17:21)また「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」(マルコ4:30)と語られています。
聖書における神の国とは地上のある場所を指すのではなく、神の権威と統治が及ぶすべての場所、そして人々の心や生活における神の支配を意味します。 では神の国に生きるクリスチャンとはどのような者なのでしょうか?ルカ9章57~62節からみていきます。

イエス様に従って行きたいと願った3人に対して語られた言葉です。
第一の人(57節)「どこにでもついて行きます」という熱意に対してイエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」(58節)と住いを持たないイエス様と生きる旅に行く覚悟はあるかと問われました。

第二の人(59節)「まず父を葬りたい」というもっともな言葉ですが「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」(60節)葬儀は他に任せてそこに集う絶望と悲しみの人々に神の国にある希望と慰めの福音を伝えなさいと語られたのです。

第三の人(61節)「ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください」との言葉に「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」(62節)と。すぐに前に向かわず躊躇して、うしろを振り向くような中途半端な生き方は、神の国を目指す生き方にはふさわしくないのです。「そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です」(ヤコブ1:8)

<鋤と畑>神様は各々に素晴らしい実りを実らせるために信仰という鋤と種を蒔く畑を与えておられます。それぞれに神の働きがあるのです。からし種は種の中で一番小さいのですが成長するとどんな野菜よりも大きくなり枝に鳥が巣を作るのです。(マルコ4:32)

<神の権威とは>
権力は人から奪い人を支配する力です。しかし権威は与えらるのです。イエス様は「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」(マタイ28:18)と、父なる神から全ての権威を与えられました。イエス様はその権威を私たちクリスチャンに与え「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。~中略~見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:19-20)と命じられました。私たちに与えられた権威は大きく二つあります。

1)祈りの権威…信仰が成長すると祈りは人々のために取り成す祈りになります。老いてもこの権威は行使できるのです。
2)みことばの権威…聖書のみことばを告白し宣言していく時、みことばの力が解き放たれて想像を超えた神の奇跡がおこるのです。(ルカ7:6-7)。
私たちは足り者ですが神は全能です。恐れないで祈りとみことばの権威を用いてください。神に信頼して生きるとき「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(マルコ 4: 30)そして私たちが集う教会に神の国を表しましょう。





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