Message メッセージ




  礼拝メッセージ 2024年6月16日/秋山浩副牧師

「父なる神の愛」 ルカ15章

今日の父の日に測りしれないほどに大きく慈愛に満ちている父なる神の愛を、イエス様の放蕩息子のたとえから学んでいきます。
「またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った」(11~13節)弟息子はそこで湯水のように財産を使い果たしてしまいます。そこにききんが起こり彼は食べることに困るほどに落ちぶれてしまったのです。そんな時、弟息子は我に返り父を思い出します。
「父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った」(18~19節)彼は父の家に戻るその道中、父は自分を受け入れてくれるだろうかと不安と恐れを抱きながら、自分のしたことの愚かさ悔みながら歩いていたのではないでしょうか。そんな弟息子を父は「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」(20節)のです。父は一言の叱責もせずにボロボロになって帰ってきた息子を抱きしめました。彼は心から悔い改めて父に「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」(21節)と告白したのです。

<悔い改めるとは>
謙遜になって自分の罪を認めることです。父は弟息子の悔い改めに対して思いもよらない祝福を与え(22~23節)その罪を無言で赦したのです。この放蕩弟息子のたとえは私たちと神との関係を象徴しています。私たちが神を否定して神の心を悟らず自分勝手な生き方をしていたところから神の愛に立ち返る時に必要なのは心の底からの悔い改めでした。悔い改めた私たちを父なる神は、イエス・キリストの十字架の贖いを通して罪を赦し救ってくださったのです。(詩篇40:2~3節)

<神の子とされた私たちに求められているのは>
「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません」(Ⅰヨハネ2:15)世の誘惑に負け、世的な生き方に妥協して失敗した弟息子の歩みに戻らないように、世の中の価値観に倣って歩むことがあってはならないのです。

<子なるイエス様に学ぶ>
十字架の苦しみを知っておられたイエス様は、ゲッセマネで父なる神様にこの辛い杯を取り除けてくださいと祈られました。ところがすぐに「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」(マルコ14:36)と神の御心に従われたのです。父なる神は私たちにとっていつも最善をされ、豊かに祝福を注いでくださるお方です。その神を信頼してイエス様のように父なる神の御心に従うことこそ、神の子とされた私たちの相応しい生き方なのです。




<< メッセージの一覧にもどる