Message メッセージ




  礼拝メッセージ 2024年5月12日/秋山浩副牧師

「熱い思いと願いをもって」

今日の母の日に、粘り強くイエス様に求め祝福を受け取った異邦人の母の信仰を学んでいきます。イエス様と弟子たち一行はツロとシドン地方に立ちのかれます。そこにカナン人の女が現れて主に懇願します。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです」(22節)自分の娘が苦しんでいても、母親としてどうすることも出来ずにいた時にイエス様が来られていると聞き、主の前に出て娘の癒しを求めました。中東では、見知らぬ異性に声を掛けることはありませんでした。しかも女性は外国人でしたから、ユダヤ人男性であるイエス様に話しかけるなど通常考えられないことでした。彼女は人種と性別という2つの妨げがありましたが、それでも勇気をもって主イエスに求め続けました。
それなのに「イエスは彼女に一言もお答えにならなかった」(23節)のです。あまりにも彼女の叫びが激しかったのか弟子たちに妨げられます。ですから簡単に近づくこともできなかったのです。

<熱心に粘り強く求め続けた女性の信仰>
ここに彼女の信仰の熱量が感じられます。私たちはどうでしょうか。例えば自分の娘が息子が妻や夫、愛する人が病などの命の危機にあるようなら、必死に主の前に教会に集って祈るかもしれません。しかし切羽詰まった状況に見舞われないと、なかなか熱心に主を求める思いは起こらず信仰生活が漠然となってしまいがちなのです。女性はイエス様に「私の娘を癒してください」ではなく、「私をあわれんでください」と叫び続けました。娘の苦しみを心に抱いて、彼女はイエス様に向き合い求めたのです。
ところがイエス様は女性に言われました。「わたしは、イスラエルの家外のところには遣わされていません」(24節)無視され続けて、今度は冷たくあしらわれる言葉です。それでも女はひれ伏して「主よ、私をお助け下さい」(25節)と懇願します。娘の癒しを願いながらイエス様に向き合って求めますが、主は「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」(26節)と彼女に言われるのです。子どもたちとはイスラエルの人々です。彼らを優先させなければならないとの意味です。まだ異邦人への働きは開かれていなかったからです。

<子犬呼ばわりされても>
それでも彼女は諦めることなく「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」(27節)と答えたのです。ここにこの女性の謙った姿、そして絶対に娘を癒してもらいたいとの熱い思いを見るのです。彼女は外国人である自分には神の祝福を受ける資格がないことを認めながらも、たとえ小犬のような存在であっても祝福の残りのおこぼれは受けるのだと知恵の言葉で応じているのです。イエス様にひれ伏して娘の癒しを願った女性には礼拝の姿がありました。娘を癒していただきたいとの一心な思いで弟子たちに遮られても、周りに沢山の人がいても主と1対1で向き合って熱心に求めたのです。「そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」すると、彼女の娘はその時から直った」(28節)熱心に娘の癒しを求めた母の祈りと信仰は主の御手を動かしました。この母親の熱心に主に求める信仰を、この母の日に彼女の熱い信仰を見習う者となりましょう。


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